由緒 |
当社の創建年代は定かではありませんが、境内に現存している古い灯篭に・承和3年1月16日奉寄進と記されている点から、千年以上前に創建された事が想像され、また同年期のものと思われる石鳥居一基が、神社の創立を物語る史実の一端となっています。
御祭神の父神様である大国主命を大国神社に、母神様である高志沼河比売命を春宮神社に摂社としてお祀りしています。
第60代醍醐天皇の御代、当時右大臣だった菅原道真公が大宰府に左遷配流の身となられた時、河内道明寺に在住の伯母君にお別れのため、当神社の前の堤(当時神社の附近は竹籔が繁り、堤の両側は沼地で、道明寺に通じる道路は、この堤が唯一のものであったと伝えられ、神社の参道と接していました。)を横切られ、参拝の上休憩されたと言います。
その際近くの住民を呼ばれ「ここは何と言う地名か」と質問されたところ、「左専道」と答えました。道真公は「われ今左遷される身なれば、左専を左遷と改めては…」と、自分の身の哀れを訴えられたという伝承があります。
その後、道真公の御身上を同情し左専を左選と改め、土地の人達は村名にしていた様ですが、縁起がよくないと云って、何時の間にか元の左専道に改められて今日に至っています。(この辺りは旧左専道町と言います)
その後、道真公は御神号の額一面を奉納になりました。
豊臣秀吉公が大阪城を築城すると、城の真東に当る当社を、城塞鎮護の社として格別崇敬されたと言います。当時、当社で行なわれていた「御頭祭」には、その都度名将を代参させ、武将数名を遣わして、「流鏑馬の神事」を奉納され、事あるごとに参拝されて祈願し、霊験を得たと、数々の寄進をされたということです。
中でも峨雄一対の大獅子(白雲号.白豊号。白雲号は流失し白豊号のみ現存。例祭に保存会に依り奉納舞を行なっています)の奉納は、1590年7月に小田原城の北城氏を攻め、落城せしめた事の戦勝感謝の奉納品であることは有名です。 |
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