全国の神社とパワースポット
月讀神社
延宝4年に壱岐島の調査を行なった平戸藩の橘三喜が式内名神大社の「月読神社」に比定し、石祠と神体として木鏡1面が藩主松浦鎮信により奉納されました。
祭祀設備もなく単に「山の神」と言われるのみでした。
現在所在が分からなくなっていますが、神功皇后が三韓征伐の際に腹に当てて出産を遅らせたとされる月延石の内一つが奉納されていると言われています。
京都の月読神社には石が一つあり、安産ご利益の石として今も祀られています。
古来はかなりの社格を持った神社でしたが、現在は氏子など地元住民や島外の崇敬者によって管理されています。
日本書紀によると阿閉臣事代が任那に使いに出された時、壱岐島で月神が憑りついて宣託をしたので天皇に奏上し、壱岐島から月神を勧請して山城国葛野郡歌荒樔田の地に葛野坐月読神社を創建したとされています。
今から650年前の南北朝の時代に起こったと言われている壱岐の神楽は、古くは神遊びと言われ、場内を祓い清め、穢(わざわい)を祓い、神を迎え・神と遊び・神を送るものとされています。
箱崎吉野家の古文書によると、壱岐の住人たちによって独自の舞文化が生まれ、大祭に奉納され永い間、島民や氏子により大切に支えられたとされています。
壱州神楽とも呼ばれ、神楽舞も楽も神職ばかりで奏せられるものです。
無形文化財ですが、起源についてのはっきりとした記録はありません。
神楽舞の手振りなども、逐次改定修補を加えられて現行神楽の基礎が作られました。
古事記によると、月読尊(つきよみのみこと)は伊邪那伎命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が右目を濯いだ時に生まれたとされています。
左目を濯いだ時に生まれたのが天照大神(あまてらすおおみかみ)、鼻を洗われた時にはスサノオがお生まれになったとされ、3柱の神を三貴神と呼び、他の大神とは別格と記されています。
全国の月読神社の本家とされているのがこの神社です。
宝亀33年には暴風雨で木や家が倒れましたが、これを占うと月読神の祟りであり、そこで神島の大中臣清麻呂を山城・壱岐・伊勢にある月読神社に遣わして、神の怒りを鎮めたと言われています。
霊元天皇延宝4年に石祀及び木鏡が松浦肥前守従伍位下源朝臣鎮保によって寄進されたことが、「奉ル備24座ノ内月読神社御正體木鏡1面」と木鏡の銘に記載されていることからわかります。
年間行事として1月1日歳旦祭、旧暦の9月23日例大祭 大神楽 御神幸祭、12月31日除夜祭 大祓い式、毎月1日と15日には月次祭を行なっています。
御祭神は、読むというのは月齢を数える事であり、日を数えることは暦(太陰暦)と言われています。
したがって月読と、稲作、潮の満ち引きとは大変深い係があるとされている月読命、月夜というのは単に月のことであり、月は夜出るわけであるから月夜といい、見は心霊を表します。
従って、この見は月を神格化したとされている月夜見命、三日月は弓の形をしていることから月読が月弓に音が変化するのに伴って、漢字も弓が当てられたと言われている月弓命です。
安産祈願、初宮詣祈願(お宮参り)、初誕生、七五三の祝い、御入学・御卒業の祝い、成人の祝い、厄払いの祈願、お祓いも行なっています。
近年は、神社が集まっている壱岐島の中心にあり、人生に悩みをもっている人に対して、これから進むべき道へ導いてくれるパワーがあると人気を集めています。
神社までは、県道に面した鳥居から、桧林の中を急な石段の参道がつづき境内までは急な階段を登らなくてはいけません。
鬱蒼として昼なお暗く、神秘的なたたずまいをしています。
月読神社の御祭神「月読命」の子孫である押見宿禰は、壱岐県主の遠祖であり、下の鳥居から西方面(湯之本方面)約500mの所にある国片主神社は、拝殿が居館跡と言われており、壱岐7大神社、五大天神として信仰されています。
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