全国の神社とパワースポット
男嶽神社
■概要
長崎県壱岐市は福岡の北西80キロの玄界灘に浮かぶ離島「壱岐島(いきのしま)」で、その市域が「壱岐対馬国定公園」に指定されています。「古事記」の国作り神話には、最初に生まれた大八島(日本列島)のひとつ「伊伎島」としてその名が記されています。
壱岐島の北部に所在する標高156メートルの「男岳山(おんだけやま)」は、古来より山岳信仰の対象として山全体が御神体として崇められた霊山で長いあいだ常人が立ち入ることは禁じられていました。
境内に散在する巨大な岩は、かつて男岳山の噴火によって飛び散った玄武岩の噴石です。その男岳山山頂付近に鎮座するのが「男嶽神社」で、今でも境内のものは草木から小石に至るまで、持ち帰れば神罰が下ると畏れられている強力なパワースポットです。
明治時代までは山の麓に拝所があったようですが、現在は登山道も開通し、車で登ることも可能です。境内には近代的な展望台もあり、360度島全体を見渡すことができます。
現在の宮司は78代目にあたり、初代は神と人を結ぶ神として春日大明神の名でも知られる「天児屋命(あめのこやねのみこと)」であると言われます。天児屋命は天照大神が天岩戸にお隠れになった際、「天太玉命(あめのふとだまのみこと)」とともに儀式を執り行い、祝詞を唱えた神さまです。
男岳山の南に位置する女岳には、猿田彦命の妻「天鈿女命(あめのうずめのみこと)」を祀る標高149メートルの「女岳神社(めんだけじんじゃ」も鎮座し、2柱を参拝すれば恋愛成就にご利益があるとされています。
■御祭神
男嶽神社の御祭神は、導きの神さまとして名高い「猿田彦大明神(さるたひこだいみょうじん)」です。現在でも、ひょうきん者の猿とともに祭りのお神輿を先導して歩く天狗の姿で表現されることがありますが、天照大神より以前に太陽神として崇められていた伊勢の土着神(国津神:くにつかみ)ではないかと言われています。
その昔、天照大神に遣わされた「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」の一行が高天原から降臨した際に、葦原の中つ国まで道案内をしたのが猿田彦命で、日本書記の記述によれば、「鼻の長さは七咫(ななあた)、背の高さは七尺(約210センチ)余り、口端が光り、目は八咫鏡のようで照り輝いていた」という風貌の持ち主でした。
「1咫(あた)」とは中国から伝わった古い尺度で、親指と中指を広げた程の長さ(約18センチ)を表しますので、軽く見積もっても1メートル超えという桁外れなビジュアルだったことが分かります。
その姿は天狗とも猿とも見分けのつかない独特のものだったので、天津神(外来神)たちがドン引きしてしまったと記されています。このとき、タレント気質を買われて「お前が行け」と前列に押し出されたのが、のちに妻となる「天鈿女命(あめのうずめ)」でした。
男嶽神社では猿田彦命の他に、いざなぎ・いざなみの間に生まれた「句々廼馳命(くくのちのみこと)」と、その子である「野槌命(のづちのみこと)」の2柱が祀られています。
句々廼馳は「くく」が木の茎に通じる木の神で、「野槌」とは野の精霊を表します。野槌は日本神話に出てくる「草祖草野姫(くさのおやかやのひめ)」の別名で、「かや(萱)」は「草の祖神」という意味です。
■男嶽神社の由緒
男嶽神社の創祀年代については定かではありませんが、遠く神代の国生みによって壱岐島が5番目に誕生した際、「天一柱(あめのひとつばしら)」と「天月神命(あめのつきのみたまのかみ)」が降臨したことを起源としています。
日本書記によれば、壱岐・対馬が朝鮮半島と中央政権を結ぶ要所として重要視されていた「顕宗(けんぞう)天皇」の時代、使者として朝鮮半島南部の任那(みまな)に赴いた豪族「阿閉臣事代(あへのおみことしろ)」が、日神と月神の託宣を朝廷に伝えました。
朝廷は託宣に従い、天月神命に山背国(京都府)葛野郡 歌荒樔田(かずのこほりうたあらすだ)の地を、天照大神(あまてらすおおみかみ)に大和(奈良県)磐余田(いわれだ)を献上しますが、このとき月読命を分霊する祭祀の任に就いたのが、壱岐県主(いきあたがぬし)の祖で天児屋命の子孫にあたる「野見宿禰(のみのすくね)」でした。
壱岐が「神道の発祥地」とされる所以であり、その大元である男嶽神社がパワースポットと言われる理由です。その後、天一柱と月読命が「箱崎八幡神社」 に遷座されたため、この2柱を導いた猿田彦が男嶽神社の御祭神として祀られることになりました。
■御神体
拝殿の裏にあたる場所に安置されている御神体は巨大な岩で、ここに天一柱と月読命が降臨したと伝えられています。強い磁力を帯びていることからコンパスの針が正しい方向を示さず、感受性の強い人は「何かを感じる」パワースポットとして脚光を浴びています。
■石猿群
社殿の周辺には200体を超える「石猿」が並び、まるで五百羅漢のような光景です。心願成就のお礼に奉納されたもので、当初は石牛を奉納する慣わしでしたが、やがて猿が優勢になったようです。
御祭神の猿田彦に因むとの説もありますが、古くから神域で見聞きしたことは他言無用とする掟があったことから「見ざる言わざる聞かざる」に繋がったというのが宮司による説です。
石猿の中には隠れキリシタンが奉納したと思しき按手(あんしゅ:頭に手を置いて祈ること)のポーズを取るものや、神の永遠性を象徴する「アルファ・オメガ」を象ったものも見られます。
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