全国の神社とパワースポット
赤間神宮
■概要
山口県下関にある竜宮城のようなたたずまいが人気の赤間神宮は、浄化力のあるパワースポットとして有名です。
もともと赤間神宮は、わずか8歳で海に身を投げた第81代天皇「安徳天皇」を供養するために建立された阿弥陀寺でしたが、明治時代の廃仏毀釈(はいぶつききゃく)により一旦廃止されました。
廃仏毀釈とは、政府がお寺のもつ特権を廃止し、国を神道で統一しようとしたもので阿弥陀寺もその対象とされましたが、名を神社として改め赤間神宮として生まれ変わり現在に至ります。
赤間神宮のある下関は、日本史上でも有名な「壇ノ浦の合戦」の舞台となった場所です。もとは、二代勢力であったのが源氏と平氏です。1159年の平治の乱(へいじのらん)で源氏が破れ、平清盛ひきいる平家が全盛時代を迎えました。
しかし、その26年後、ここ壇ノ浦の合戦で平家一門は、完全に破れ幕を閉じます。そして、この戦で犠牲となったのが、赤間神宮に祭られる安徳天皇です。
安徳天皇とは、高倉天皇と平清盛の娘である徳子との間に生まれた子で幼い子を天皇に即位させ、平家が実権を握っていました。源氏が勢いを増す中、京を追われた平家は、なんとしても権力を守り抜きたいため都から安徳天皇を連れ出します。
しかし、1185年、ついに平家は源氏に壇ノ浦まで追い詰められ、安徳天皇と同船していた平清盛の妻で安徳天皇の祖母にあたる二位尼(時子)が、天皇を抱きかかえ海へと身を投げたのでした。
最期に、二位尼が安徳天皇に伝えたという詩というのが、
「今ぞ知る みもすそ川の おんながれ 波の下にも 都あり」です。
「波の下にも都がございますよ。」と伝え、入水されました。この言葉が元となり、太平洋戦争で焼失した赤間神宮を建て替える際には、水中の都である「竜宮城」をイメージして現在のような美しい水天門が造られたといわれています。
■怪談「耳なし芳一」の舞台となったのも実は赤間神宮
わずか8歳で命を落とした安徳天皇の魂を慰めるために壇ノ浦の合戦の1年後、赤間神宮の前身である阿弥陀寺が建立されました。現在、赤間神宮の敷地内には、宮内庁指定の安徳天皇のお墓である御廟所(ごびょうしょ)が管理されています。
また、同じく、その戦で敗れた平家一族のお墓「七盛塚」も宝物殿横でひっそりと祀られおり、ここ赤間神宮では汚れた魂が浄化されるパワースポットになっています。
そんな赤間神宮にまつわるもう一つ有名なお話が、「耳なし芳一」です。
むかし、目は不自由ですが、琵琶の腕前がピカイチのお坊さんがいました。そのお坊さんの名は芳一といい、壇ノ浦の戦いの悲劇を琵琶片手に弾き語ることでも有名でした。ある日、毎晩毎晩どこかへ出かけてやつれていく芳一を不思議に思った和尚さんは、そのあとをそっとつけてみることにしました。
すると、なんと、芳一は霊にとりつかれており、お墓の前で毎晩平家の霊に弾き語っていたのです。そこで、和尚さんは、芳一が霊に連れていかれないように、全身にお経を書いてあげました。しかし、和尚さんは芳一の耳にお経を書くのをうっかり忘れていたのです。
その夜、芳一を呼びにきた霊に耳だけがみつかってしまい、耳だけをもぎ取られてしまったというお話が「耳なし芳一」です。
そのお話に登場した芳一が毎晩連れてこられていたのが、ここ赤間神宮の平家一族が祀られる「七盛塚」になります。
赤間神宮では、毎年7月15日に「耳なし芳一まつり」が開催され、現在も弔われているのです。
■幸せを呼ぶ「フク土鈴」
歴史的にも怪談話的にも、話題性だけでなく、見どころでも満載の赤間神宮ですが、実はお守りの種類の多さとしても有名です。
安産や子授かりのパワースポットとして有名なためそれ関連のお守りを選ぶ参拝者が多いのですが、招福アイテムとして人気なのが「フク土鈴」です。
下関は、フグの本場のとして全国的に有名です。南風泊(はえどまり)市場は日本最大のフグのセリ市場になります。そんな地元では、フグを濁らず発音し、フクと呼びます。幸福のフクを招く縁起物とされているのです。
そんな幸福を招くフクの鈴が、赤間神宮のパワースポットアイテムとして人気です。
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